ドリップコーヒー的な日常

こぼれ落ちて、溶けてしまいそうな‟思い”を書き留めています。

赤ちゃんのコトバ

「嫌なニュースが多いなあ。」

 

久しぶりの更新。

最近、春休みに入って、ぼーっとニュースを眺めていたら、子供が虐待されている痛ましい話がよく流れる。赤ちゃんや子どもが泣いたり叫んだり、ダダをこねたりして、それに嫌気がさして…とか、身勝手すぎるなあと感じる。

 

こうした話に関連して、以前、私が通っている大学の研究発表会(いわゆるORF)にて、学部長がとてもおもしろい研究を発表していたので、今回はそれについて少し書こうかなと思う。

 

研究の概要はというと…

赤ちゃんとお母さん(または、赤ちゃんを育てる人)の間には「非言語的コミュニケーション」が交わされていて、赤ちゃんが泣いたり、ぐずったりするときには、何かしらの理由がある。

「おむつを替えてほしい」だとか「お腹すいた」だとか「遊んでほしい」などなど。

 

こうした赤ちゃんの“言葉なき意思表示”を「親」という最強キャラは、言語化されていなくても、理解でき、表情や声から読み取ることができるらしい。やはり強い。

 

でも、泣いているのに、「親」が赤ちゃんの意思表示を読み取れるのにも、ちゃんと理由がある。

その「親」も赤ちゃんの時に泣きながら何らかの意思表示をしていて、彼らの親がその訴えを理解してくれた経験があるから、なんだって。

 

だから簡単に言うと、私(現21歳)が親になったとき、赤ちゃんの意思表示をなんとなくでも理解できたら、それは、過去に僕の親が、僕の泣き声から僕の思いを汲み取ってくれていたから、ということになる。

 

しかし逆に考えると、こうして赤ちゃんの時に思いを汲み取ってもらえなかった人たちが、自分の子どもから発せられる非言語的な声の意味が理解できず、嫌になってしまって、虐待とかの方向に走ってしまうケースがあるのかなと。(もちろん例外あり。)これが本当なら、家庭内暴力や虐待とかは親族的に連鎖しやすいっていうのも少し納得できる。

 

このブログで、この連鎖をなくす方法とかを提示したりはできないけど、これからどんどん少子化が進む中で、赤ちゃん一人ひとりを大切に育てていくことはとても大切で、必要なことだと思ってる。だからこそ、虐待ばかりを非難するのではなく、虐待をしてしまう背景的な部分の改善にも注力していくべきなんだろうなあと感じた。

 

今は、ご近所付き合いとかも昔に比べて希薄化してるし、国内外の移動も多い人も増えてきて、「気軽に育児の悩みを相談」できる存在や環境もあまりないのかなと思ったり。突然親になって、右も左もわからないからこそ、「親になるための学びの場」的なのにも、気軽に参加できる社会の在り方があってもいいなあって。

 

なんか今回は、僕の思いというより、面白かったお話と問題意識の紹介みたいになってしまったけどご容赦ください。

 

「僕はどんな親になれるのかなあ。」