ドリップコーヒー的な日常

こぼれ落ちて、溶けてしまいそうな‟思い”を書き留めています。

『愛がなんだ』テルコは自分を愛せたか?

 

ブログ、久々の投稿。まさかの半年ぶり。三日坊主。うまい言葉だ。

 

角田光代 著 『愛がなんだ』 読了

 

今春~初夏あたりに岸井ゆきの成田凌主演で実写映画化されていた作品。

公開前の話題性はそこまで無かったのに、公開されるやいなや、リピーター続出のヒット映画に。この記事は、その原作を読んだ感想。


ざっくりとしたあらすじ。(引用文じゃないです)

主人公の女性・山田テルコは、合コンで偶然知り合ったダメ男・マモルに対して恋愛感情を抱くようになる。「マモルに会いたい、必要とされたい」という一心で、日常生活や仕事、人間関係まで犠牲にして、テルコがマモルに尽くしまくる。でも、テルコはマモルの彼女じゃない。マモルはテルコのことを”山田さん”と呼ぶ。“超”がつくほど一方通行で、少し歪んでいるとさえ感じる恋愛物語を描いたお話。

どうやら、テルコの心情や言動に対する「共感」がヒットの理由らしい。
めっちゃ観たい。早くDVDレンタル開始してくれ。

予告編→https://www.youtube.com/watch?v=SA4bh7J8_ck (シネマトゥデイ)

 

あ、ちなみに、あいみょん聴きながら読むと、言い知れぬエモさを体感できる。

 

さて、この作品における【恋愛観】とかについては、あらゆるところで語られつくしている。普段作品の感想なんてあまり口にしないような人まで「この作品は~」とか語りだす。そんな『愛がなんだ』。実は歴史に残る名作なのでは?

 

そんな中で僕は!

この作品における【自己肯定感】の描かれ方が最高におもしろかったので、それについて書く。

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テルコは、”山田さん”自身を愛せていた。

 
一般的に「自己肯定感が低い人」というと、自分に自信が持てない、自分のありのままを尊重できない、自分のことを好きになれないって感じの人のことを指す。

 

僕自身も昔からこの傾向が強い。

テストとか何か大事なことがある前日は、最悪なケースを想像してネガティブな感情に押しつぶされそうになる。就活に関してもそう。普段から、八方美人になって人から嫌われないようにしなきゃって考えがちだし、周りから褒められたりしても、素直に受け止められなかったりもする。

 

テルコ自身もこう言っていた。

「私だってこんな自分好きじゃない。もっと自然体でいられたらいいのに、と心から思う。」

 

テルコはマモルに好かれたい一心で、自分の本音やその言動の裏にある真意を、マモルや周囲の人にバレないよう、必死に隠そうとしている。

ただひたすら、マモルに尽くして、尽くして、尽くして、尽くす。

読者から見れば、「都合のいい女」になりすぎだよ…と言いたくなる場面がめっちゃある。実際テルコの友人・吉乃からもそう言われていた。

 

夢も、成長意欲も、趣味も、“何もない”テルコにとって、片思い相手であるマモルに必要とされることこそが、テルコ自身の肯定感を満たしてくれるのだろう。

テルコは「自分というものの輪郭を自覚したい」と言った。

潜在的にある自己認識の欲求を満たし、自分に何らかの価値を見出したいという欲求を、マモルに尽くすことで、叶えようとしているようにも思えた。

 

生活も仕事も何もかも差し置いて、マモルに尽くすことが人生の最優先事項だと考えているテルコに対して、本書のあとがきを書いた島本理生はこう書いていた。

「テルちゃんは、無意識のうちに自分のことを一番『どうでもいい』存在として分類している。」

 

テルコは自分で自分のことを愛せない人。
そう思われて当然な主人公だった。

 

でもそうじゃない、って思った。

 

「言いなりとか、相手がつけあがるとか、葉子(テルコと親しい友人)はよく口にする。私にとって、存在するのは、ただ好きである、と、好きでない、ということのみ。きっとこれは私の独特の恋愛観であり、きっと葉子には意味不明なのだ。」

 

「ストーカーが私のような女を目指すなら、世の中は慈愛(深い愛情)に満ちている」

 

「そうだよ。だからさあ、私でいいじゃん。べつに。すみれさんじゃなくて、私で」

 

「私はただ、マモちゃんの平穏を祈りながら、ずっとそばにはりついていたいのだ。サンプルのない関係を私が作っていくしかない。」

 

こういった言葉の随所に、テルコは”山田さん”としてマモルとの関係の中で生きることを理解し、認めているように思えた。もちろん無意識的にかもしれない。

 

自分のことを嫌いと言いながら、マモルに対しての言動を「慈愛」として捉え、「私でいいじゃん」と自己推薦しちゃうくらい、自分の価値観や生き方を肯定できているのだ。

同調圧力や集団意識が特に強いとされているこの日本で、ここまで潔く、“山田さん”として生きている。もちろんこの生き方が完全な正だとは思ってない。

 

けど、テルコは彼女なりの【自己肯定感】をしっかりと抱えている。僕はそう感じた

 

友人の葉子や吉乃などが、テルコとマモルの関係性の不自然なねじれ具合などを説明し、何度もテルコを現実に引き戻そうとした。読者側がテルコに浴びせたくなるような言葉の数々を、何度も代弁してくれていた。

 

それでもテルコは、生き方を変えなかった。

相手から求められたり、存在を認められたりすることで満たされる【外在的な自己肯定感】が分かりやすく描かれている裏で、

自分自身の今の生き方を全面的に否定できず、むしろその有り様に愛おしさすら感じている【内在的の自己肯定感】が繊細に描かれていた。

 

こういった描写が、私的には結構刺さった。

自分の軸とは、自分が信じるものとは、自分の譲れないこととは、自分のどこ愛せるだろう。いろんなことを考えさせられるきっかけになった作品だった。

 

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『愛がなんだ』

とてもよかった。いろいろ考えさせられたし、純粋に恋愛小説として楽しめた。

早く映画版を見たい、切実に。

 

ちなみに作中で僕が深いなあ…と感じた言葉、堂々の第1位は↓↓

「プラスの部分を好ましいと思い誰かを好きになったのならば、嫌いになるのは簡単。プラスが一つでもマイナスに転じればいいのだから。そうじゃなく、マイナスであることそのものを、かっこよくないことを、そういう全部を好きだと思ってしまったら、嫌いになることなんて、たぶん永遠にない。」

赤ちゃんのコトバ

「嫌なニュースが多いなあ。」

 

久しぶりの更新。

最近、春休みに入って、ぼーっとニュースを眺めていたら、子供が虐待されている痛ましい話がよく流れる。赤ちゃんや子どもが泣いたり叫んだり、ダダをこねたりして、それに嫌気がさして…とか、身勝手すぎるなあと感じる。

 

こうした話に関連して、以前、私が通っている大学の研究発表会(いわゆるORF)にて、学部長がとてもおもしろい研究を発表していたので、今回はそれについて少し書こうかなと思う。

 

研究の概要はというと…

赤ちゃんとお母さん(または、赤ちゃんを育てる人)の間には「非言語的コミュニケーション」が交わされていて、赤ちゃんが泣いたり、ぐずったりするときには、何かしらの理由がある。

「おむつを替えてほしい」だとか「お腹すいた」だとか「遊んでほしい」などなど。

 

こうした赤ちゃんの“言葉なき意思表示”を「親」という最強キャラは、言語化されていなくても、理解でき、表情や声から読み取ることができるらしい。やはり強い。

 

でも、泣いているのに、「親」が赤ちゃんの意思表示を読み取れるのにも、ちゃんと理由がある。

その「親」も赤ちゃんの時に泣きながら何らかの意思表示をしていて、彼らの親がその訴えを理解してくれた経験があるから、なんだって。

 

だから簡単に言うと、私(現21歳)が親になったとき、赤ちゃんの意思表示をなんとなくでも理解できたら、それは、過去に僕の親が、僕の泣き声から僕の思いを汲み取ってくれていたから、ということになる。

 

しかし逆に考えると、こうして赤ちゃんの時に思いを汲み取ってもらえなかった人たちが、自分の子どもから発せられる非言語的な声の意味が理解できず、嫌になってしまって、虐待とかの方向に走ってしまうケースがあるのかなと。(もちろん例外あり。)これが本当なら、家庭内暴力や虐待とかは親族的に連鎖しやすいっていうのも少し納得できる。

 

このブログで、この連鎖をなくす方法とかを提示したりはできないけど、これからどんどん少子化が進む中で、赤ちゃん一人ひとりを大切に育てていくことはとても大切で、必要なことだと思ってる。だからこそ、虐待ばかりを非難するのではなく、虐待をしてしまう背景的な部分の改善にも注力していくべきなんだろうなあと感じた。

 

今は、ご近所付き合いとかも昔に比べて希薄化してるし、国内外の移動も多い人も増えてきて、「気軽に育児の悩みを相談」できる存在や環境もあまりないのかなと思ったり。突然親になって、右も左もわからないからこそ、「親になるための学びの場」的なのにも、気軽に参加できる社会の在り方があってもいいなあって。

 

なんか今回は、僕の思いというより、面白かったお話と問題意識の紹介みたいになってしまったけどご容赦ください。

 

「僕はどんな親になれるのかなあ。」

知るというコト

「んー。いつも通り明太フランス1つください!」
 

家の近所に、よく行く小さなパン屋さんで僕はいつも店主にこう言う。
いかんせん、その明太フランスがおいしすぎて、ついついそればかり買っちゃう。
よく行くパスタ屋さんでも、決まって頼むのはカルボナーラ。これまたおいしい。
某ドーナツ屋さんだと、ストロベリーのポンデリング

 

そんなこんなで、今回のお話は、自戒の念も込めて書こうと思う。

 

というのも、僕は一度気に入ったらその商品しか買わなかったり、見なかったり、聴かなかったりと、一つに絞ってそれに固執しがち。実際のところ、ある店に初めて訪れ、ある品を買って気に入ったら、今後それだけ、と「絞る」という行為すらしないことも多く、自分の関心を広げる場を失い続けてる。

 

私的にこれはあまりよくない癖だなって最近感じていて。

 

ある教授が「経験は直感の糧です。」と言っていて、その時は聞き流したけど、最近同じようなことを色んな方面の人たちから言われるようになって、いよいよ信憑性が増してきた。

どうやら、「自分の好みに固執する癖」が学業や仕事などいろんな場面で表れ始めたら、自分の思考力や想像力の幅、直感の精度を大きく損ない、人としての成長に悪影響を及ぼしかねないらしい。

 

ここ数年で、自分の目や耳から膨大な量の情報が流れ込んでくる毎日になった。ニュースを見ている時とか、スマホでオンラインニュースを流し見している時とか、大学で講義を受けている時とかっていうのは、「受動的」に情報を得ているから、割とジャンルも多様化されてる。

(まあ実際、詳細まで読むニュースも興味あるものだけとか、受ける講義も偏ってしまったりすることも多々あるが・・・)

 

けど、問題なのは、「能動的に自分から」何らかの情報や知識を得ようとするときに出る「好みに固執する癖」。

一番顕著な例だと、本を選んで、買って、読むとき。

「新書だと僕は労働学や雇用関連が専攻分野だから」とか、「フィクションだとサスペンス系が好きだから」という固定概念に、頭の中とそれに伴う行動が支配されちゃう。

 

TwitterInstagramなどのSNSでタイムラインを流し見しているときも、一見情報のジャンルはたくさんあるように思えるけど、実は自分好みの情報が多く流れるようなアカウントばかりをフォローしていたりして、偏りがち。

 

もちろん「好み」は個性を保つ大切な要素だし、人生の幸せ度アップにめっちゃ貢献してる。

 

けど最近頭に浮かぶのは、こうした狭い範囲での限定的な情報の獲得法を続けてしまうと、ある事柄に対して1つ(もしくは少ない)ルートだけでしか思考を巡らせることができなくなってしまうのではないか、という不安だ。

 

書籍だってジャンルを問わず乱読しろってよく父親に言われるし、ニュースもせめて全タイトルだけは読んだほうがいい気がするし、たまには違うメニュー試したほうがもっとその店のことが好きになるかもしれない。

 

こうやって多様な情報に少しでも触れて、頭の中にたくさんの「小さい引き出し」を作っておくことが大切なんだと思う。いずれ、その引き出しのどれかが自分の「好み・関心」と運命的な出会いをして何かが生まれるかも。

 

しかし、こうして得た多角的かついろいろな知識や情報を持ち合わせるがゆえに「知ったかぶり」にならないように、と僕自身に注意喚起しておきたい。
新しく知りえた内容・知識については会話でじゃんじゃんアウトプットしていきたいけど、わかんなかったら知ったかぶりはしません。ハイ。

 

改めて考えると、いろんな方面の情報・知識を今のうちから獲得しておくことって、すごく有意義な将来への投資活動だし、その運命の出会いを果たすためだと思うとなんだか楽しくなってくる。

(今回の話は、第1回目に投稿したコミュニケーションの大切さに結構通ずるものがあったな...。)

 

「んー。今日は明太フランスと焼きそばパンください!」

おばあちゃんとボク

遠いところまでよく来てくれたねえ。

 

人それぞれだとは思うけれど、僕はお正月というおめでたい時期が来ると、なんとなくおばあちゃん、おじいちゃん、と連想してしまう。
新年の挨拶回りとかで、昔から毎年この時期になるとおばあちゃんの家に行ったりする習慣があるからかな。

 

高校の頃くらいまでは、年に数回ほどある「おばあちゃんの家を訪れる」ことに何のスペシャリティも感じてなかったし、ちょっとめんどくさいなとか、お年玉もらえるなとか、元気かなーくらいしか、特に意識することは何もなかった。
(まあ今でも、おばあちゃんがお年玉とかくれたら、ぶっちゃけ嬉しいし、ありがたや~ってつねづね思うわけなんだけど…)

 

けどここ数回、「おばあちゃんの家」に行くたびに"思うこと"があって。
今回はそのことについて書こうと思う。


【※注意※】
もちろん世の中には、今回僕が書いてることと全然違った思いを持ってる人もいると思う。
家族や親族関係はそれぞれ。だからこれはあくまで、僕のおばあちゃんやおじいちゃんの話。
あと、なんかすごい格好つけてこいつ語ってるなとか思うかもしれないけど許してください...。


その"思うこと"っていうのが、
無意識的におばあちゃんのことを助けるというか、支えるというか、思いやることが増えたな
ってことなんです。

 

例えば、亡くなったおじいちゃんの話が、ふとした団らんの場に出てきたりした時に、ちょっと涙ぐんでるのが見えて、さりげなく楽しい話題を振ってみたり。

少し耳が遠くなって家族の団欒にうまく混じれてないのが見えて、喋りかけてみたり。

母(つまりおばあちゃんの娘)にガミガミ言われて悲しそうにしてる時にちょっとおばあちゃんサイドに加勢してみたり。

と、こんな感じで少し思い出すだけでも、その時は意識せずとも、何かとおばあちゃんのことを支えようとしてるなーって。

 

なんでだろうって考えたときに、

お年玉もらってるからとか、親にそういう態度を取れって言われたからだとか、年寄りの人には良くするのが当たり前だとか、おじいちゃんが亡くなって寂しそうだからとか。

でもどれを取っても腑に落ちない。

 

でも一つだけしっくりくる言葉がある。
長いこと生きている人たちから、よく言われるやつ。

僕らは「無償の愛を受けて育ってるんだぞ」的なこと。

その「無償の愛情」が、僕をそういう行動を起こさせてるって思うと、これが不思議と腑に落ちる。

 

まあ無償の愛情って言葉の並びや響きからして相当照れくさいし、ほんとにそうか?って感じもする。

 

けど思い返すと、おばあちゃんやおじいちゃんって、

僕が親に「勉強しなさい!」って言われているときも「○○はよく頑張ってるよねえ」

顔見せるたびに「大きくなったねえ」

ちょっとしたことにも「おめでとうさん」

っていう風に、いつも「僕」という存在そのものを無条件に肯定してくれてた気がする(もちろん、親に対してもこれは言えると思う。でも今回の主役はおばあちゃんやおじいちゃん。)

 

すごく、言語化するのは難しいけど、こういう無条件で、無意識的で、温かくて、人の一生に溶け込んで見えない思いやりのようなものが「無償の愛情」なんじゃないかって最近考えるようになった。

 

こういった「無償の愛情」的なものが、僕とおばあちゃんの今の関係性の一部でも、築いているのだとしたら、それってすごく美しいなと。すごく大切にしたい感情だなと思う。

 

こうやっていろいろ書いてある間にも、いろんな思い出がフラッシュバックして少し目頭が熱くなって来るぐらいには、僕にとっておばあちゃんとおじいちゃんって大切なんだなあと感じる。
あんなに熱かったホットコーヒーはすっかり冷めてしまったけど。

 

これからも帰省するたびに顔を見せよう。今までたくさん受け取った分、もっともっと愛情を届けよう。この温かい感情を忘れないようにしよう。

 

「またすぐ顔を見せにくるね。」

伝え合うコト

「僕は君と分かり合えない。」

こんなこと言われたら、ぶっちゃけ結構ショックだよね。

 

でもそれに対して、 

「ちゃんと話し合えば分かり合えるよ」

「なんで分かってくれないの」

「普通に考えて◯◯でしょ!」

とか言い始めちゃったら、それはもう会話でもなく、議論でもなく、コミニュケーションでもない。

 

ただの、一方向にしか流れないシャワー。

いわば、承認欲求で溢れた言葉のパンチ。

「伝える」コトの意味をはき違えてる。

 

かといって、

理解し合うことや共感し合うこと、一つのコンセンサスを導き出すことは、決して悪いわけではなく、むしろ人間的幸せ満たしてくれるし、共通意識の創出という点においては、大切な要素だと思う。

 

だけど、ここで再確認したいのは、
伝え合うコトのゴールは「思考の合意」じゃないでしょってこと。

 

ゴール、と一概に帰着点を決めてしまうのもどうかと思うけど、あえて言うならば、伝え合ったり、話し合ったり、議論するコトのゴールは、

「思考の共有による、思考の拡張」だと僕は思う。

 

2019/1/1放送の"ニッポンのジレンマ"という、日本の若年層の討論をただ聴くだけの番組を見て思った。

 

「思考の言語化と、それを共有する対話」

をすることが、これからの社会を担う僕たち"ワカモノ"に必要なことなのかなと。

 

勿論、いろんな分野の授業を受けたり、本を読んだり、メディアを見聞することで、個人の思考は大きく拡張される時代に僕らは生きてる。

 

だけど、自分と自分以外の複数の思考が共存し、その環境が意図的に作られている「対話」というのは、自分も、その場を共有する相手も、思考の拡張という「徳」を獲得できるという、ある種、どの人間にもできる究極的な成長手段なんじゃないかと、ひたすら言葉をぶつけ合い続けるこの番組を見て思った。

 

だからこそ、僕たちは対話の場において、臆せず自分の思考を伝えて晒し、それに対する相手の思考を聞き、はたまた相手の思考に対して完全肯定、完全否定のどちらかに収束させることなく、「思考の拡張」という徳を共有していくことが大切なんじゃないか。

 

じゃあ個人の思考が拡張されることの何が、そんなに「良い」のか。

端的に言うと、個人がしうるアクションの可能性が広がって、ひいてはそのアクションが社会を動かすイノベーションとなり得ると思ってる。

 

番組内である人が言っていた「意味のイノベーションという言葉がとても印象的だった。

そこでは、既存のモノに対する意味・価値付けを、時代の変遷に合わせてアップデートすることで、既存のモノからでも十分に社会イノベーションを起こせるよね、というニュアンスで使われていた。

 

このニュアンスだけでも、とても納得させられる言葉だったけど、これは僕の言う「会話の本質」にも深く関わる言葉のように感じた。

 

今までの自分にとって、"普通"で、"常識"で、"◯◯だと思っていた"、個々が持つ既存の知識に対して、革命(イノベーション)を起こしてくれるのが伝え合うコトの真の目的なんじゃないか。

 

それまでの自分の中にあった物事に対する意味付けや捉え方に対してスパイスを加えてくれる。それはワサビのように刺激的かもしれないし、ナツメグのように潜在的かもしれない。

 

でもそのちょっとしたスパイスを、自分の思考という料理に振りかけることで、より上質な料理にアップグレードされるかもしれないなら、自分の成長を夢見て、今からでも誰かと何かを話したい。今思っていることを伝えて、その人の思いも聞きたい。そうやって伝え合うコトの大切さをかみしめて生きていきたい。

 

だから、

「僕は君と分かり合えなくてもいいんだ。」