ドリップコーヒー的な日常

こぼれ落ちて、溶けてしまいそうな‟思い”を書き留めています。

伝え合うコト

「僕は君と分かり合えない。」

こんなこと言われたら、ぶっちゃけ結構ショックだよね。

 

でもそれに対して、 

「ちゃんと話し合えば分かり合えるよ」

「なんで分かってくれないの」

「普通に考えて◯◯でしょ!」

とか言い始めちゃったら、それはもう会話でもなく、議論でもなく、コミニュケーションでもない。

 

ただの、一方向にしか流れないシャワー。

いわば、承認欲求で溢れた言葉のパンチ。

「伝える」コトの意味をはき違えてる。

 

かといって、

理解し合うことや共感し合うこと、一つのコンセンサスを導き出すことは、決して悪いわけではなく、むしろ人間的幸せ満たしてくれるし、共通意識の創出という点においては、大切な要素だと思う。

 

だけど、ここで再確認したいのは、
伝え合うコトのゴールは「思考の合意」じゃないでしょってこと。

 

ゴール、と一概に帰着点を決めてしまうのもどうかと思うけど、あえて言うならば、伝え合ったり、話し合ったり、議論するコトのゴールは、

「思考の共有による、思考の拡張」だと僕は思う。

 

2019/1/1放送の"ニッポンのジレンマ"という、日本の若年層の討論をただ聴くだけの番組を見て思った。

 

「思考の言語化と、それを共有する対話」

をすることが、これからの社会を担う僕たち"ワカモノ"に必要なことなのかなと。

 

勿論、いろんな分野の授業を受けたり、本を読んだり、メディアを見聞することで、個人の思考は大きく拡張される時代に僕らは生きてる。

 

だけど、自分と自分以外の複数の思考が共存し、その環境が意図的に作られている「対話」というのは、自分も、その場を共有する相手も、思考の拡張という「徳」を獲得できるという、ある種、どの人間にもできる究極的な成長手段なんじゃないかと、ひたすら言葉をぶつけ合い続けるこの番組を見て思った。

 

だからこそ、僕たちは対話の場において、臆せず自分の思考を伝えて晒し、それに対する相手の思考を聞き、はたまた相手の思考に対して完全肯定、完全否定のどちらかに収束させることなく、「思考の拡張」という徳を共有していくことが大切なんじゃないか。

 

じゃあ個人の思考が拡張されることの何が、そんなに「良い」のか。

端的に言うと、個人がしうるアクションの可能性が広がって、ひいてはそのアクションが社会を動かすイノベーションとなり得ると思ってる。

 

番組内である人が言っていた「意味のイノベーションという言葉がとても印象的だった。

そこでは、既存のモノに対する意味・価値付けを、時代の変遷に合わせてアップデートすることで、既存のモノからでも十分に社会イノベーションを起こせるよね、というニュアンスで使われていた。

 

このニュアンスだけでも、とても納得させられる言葉だったけど、これは僕の言う「会話の本質」にも深く関わる言葉のように感じた。

 

今までの自分にとって、"普通"で、"常識"で、"◯◯だと思っていた"、個々が持つ既存の知識に対して、革命(イノベーション)を起こしてくれるのが伝え合うコトの真の目的なんじゃないか。

 

それまでの自分の中にあった物事に対する意味付けや捉え方に対してスパイスを加えてくれる。それはワサビのように刺激的かもしれないし、ナツメグのように潜在的かもしれない。

 

でもそのちょっとしたスパイスを、自分の思考という料理に振りかけることで、より上質な料理にアップグレードされるかもしれないなら、自分の成長を夢見て、今からでも誰かと何かを話したい。今思っていることを伝えて、その人の思いも聞きたい。そうやって伝え合うコトの大切さをかみしめて生きていきたい。

 

だから、

「僕は君と分かり合えなくてもいいんだ。」