知るというコト
「んー。いつも通り明太フランス1つください!」
家の近所に、よく行く小さなパン屋さんで僕はいつも店主にこう言う。
いかんせん、その明太フランスがおいしすぎて、ついついそればかり買っちゃう。
よく行くパスタ屋さんでも、決まって頼むのはカルボナーラ。これまたおいしい。
某ドーナツ屋さんだと、ストロベリーのポンデリング。
そんなこんなで、今回のお話は、自戒の念も込めて書こうと思う。
というのも、僕は一度気に入ったらその商品しか買わなかったり、見なかったり、聴かなかったりと、一つに絞ってそれに固執しがち。実際のところ、ある店に初めて訪れ、ある品を買って気に入ったら、今後それだけ、と「絞る」という行為すらしないことも多く、自分の関心を広げる場を失い続けてる。
私的にこれはあまりよくない癖だなって最近感じていて。
ある教授が「経験は直感の糧です。」と言っていて、その時は聞き流したけど、最近同じようなことを色んな方面の人たちから言われるようになって、いよいよ信憑性が増してきた。
どうやら、「自分の好みに固執する癖」が学業や仕事などいろんな場面で表れ始めたら、自分の思考力や想像力の幅、直感の精度を大きく損ない、人としての成長に悪影響を及ぼしかねないらしい。
ここ数年で、自分の目や耳から膨大な量の情報が流れ込んでくる毎日になった。ニュースを見ている時とか、スマホでオンラインニュースを流し見している時とか、大学で講義を受けている時とかっていうのは、「受動的」に情報を得ているから、割とジャンルも多様化されてる。
(まあ実際、詳細まで読むニュースも興味あるものだけとか、受ける講義も偏ってしまったりすることも多々あるが・・・)
けど、問題なのは、「能動的に自分から」何らかの情報や知識を得ようとするときに出る「好みに固執する癖」。
一番顕著な例だと、本を選んで、買って、読むとき。
「新書だと僕は労働学や雇用関連が専攻分野だから」とか、「フィクションだとサスペンス系が好きだから」という固定概念に、頭の中とそれに伴う行動が支配されちゃう。
TwitterやInstagramなどのSNSでタイムラインを流し見しているときも、一見情報のジャンルはたくさんあるように思えるけど、実は自分好みの情報が多く流れるようなアカウントばかりをフォローしていたりして、偏りがち。
もちろん「好み」は個性を保つ大切な要素だし、人生の幸せ度アップにめっちゃ貢献してる。
けど最近頭に浮かぶのは、こうした狭い範囲での限定的な情報の獲得法を続けてしまうと、ある事柄に対して1つ(もしくは少ない)ルートだけでしか思考を巡らせることができなくなってしまうのではないか、という不安だ。
書籍だってジャンルを問わず乱読しろってよく父親に言われるし、ニュースもせめて全タイトルだけは読んだほうがいい気がするし、たまには違うメニュー試したほうがもっとその店のことが好きになるかもしれない。
こうやって多様な情報に少しでも触れて、頭の中にたくさんの「小さい引き出し」を作っておくことが大切なんだと思う。いずれ、その引き出しのどれかが自分の「好み・関心」と運命的な出会いをして何かが生まれるかも。
しかし、こうして得た多角的かついろいろな知識や情報を持ち合わせるがゆえに「知ったかぶり」にならないように、と僕自身に注意喚起しておきたい。
新しく知りえた内容・知識については会話でじゃんじゃんアウトプットしていきたいけど、わかんなかったら知ったかぶりはしません。ハイ。
改めて考えると、いろんな方面の情報・知識を今のうちから獲得しておくことって、すごく有意義な将来への投資活動だし、その運命の出会いを果たすためだと思うとなんだか楽しくなってくる。
(今回の話は、第1回目に投稿したコミュニケーションの大切さに結構通ずるものがあったな...。)
「んー。今日は明太フランスと焼きそばパンください!」