ドリップコーヒー的な日常

こぼれ落ちて、溶けてしまいそうな‟思い”を書き留めています。

おばあちゃんとボク

遠いところまでよく来てくれたねえ。

 

人それぞれだとは思うけれど、僕はお正月というおめでたい時期が来ると、なんとなくおばあちゃん、おじいちゃん、と連想してしまう。
新年の挨拶回りとかで、昔から毎年この時期になるとおばあちゃんの家に行ったりする習慣があるからかな。

 

高校の頃くらいまでは、年に数回ほどある「おばあちゃんの家を訪れる」ことに何のスペシャリティも感じてなかったし、ちょっとめんどくさいなとか、お年玉もらえるなとか、元気かなーくらいしか、特に意識することは何もなかった。
(まあ今でも、おばあちゃんがお年玉とかくれたら、ぶっちゃけ嬉しいし、ありがたや~ってつねづね思うわけなんだけど…)

 

けどここ数回、「おばあちゃんの家」に行くたびに"思うこと"があって。
今回はそのことについて書こうと思う。


【※注意※】
もちろん世の中には、今回僕が書いてることと全然違った思いを持ってる人もいると思う。
家族や親族関係はそれぞれ。だからこれはあくまで、僕のおばあちゃんやおじいちゃんの話。
あと、なんかすごい格好つけてこいつ語ってるなとか思うかもしれないけど許してください...。


その"思うこと"っていうのが、
無意識的におばあちゃんのことを助けるというか、支えるというか、思いやることが増えたな
ってことなんです。

 

例えば、亡くなったおじいちゃんの話が、ふとした団らんの場に出てきたりした時に、ちょっと涙ぐんでるのが見えて、さりげなく楽しい話題を振ってみたり。

少し耳が遠くなって家族の団欒にうまく混じれてないのが見えて、喋りかけてみたり。

母(つまりおばあちゃんの娘)にガミガミ言われて悲しそうにしてる時にちょっとおばあちゃんサイドに加勢してみたり。

と、こんな感じで少し思い出すだけでも、その時は意識せずとも、何かとおばあちゃんのことを支えようとしてるなーって。

 

なんでだろうって考えたときに、

お年玉もらってるからとか、親にそういう態度を取れって言われたからだとか、年寄りの人には良くするのが当たり前だとか、おじいちゃんが亡くなって寂しそうだからとか。

でもどれを取っても腑に落ちない。

 

でも一つだけしっくりくる言葉がある。
長いこと生きている人たちから、よく言われるやつ。

僕らは「無償の愛を受けて育ってるんだぞ」的なこと。

その「無償の愛情」が、僕をそういう行動を起こさせてるって思うと、これが不思議と腑に落ちる。

 

まあ無償の愛情って言葉の並びや響きからして相当照れくさいし、ほんとにそうか?って感じもする。

 

けど思い返すと、おばあちゃんやおじいちゃんって、

僕が親に「勉強しなさい!」って言われているときも「○○はよく頑張ってるよねえ」

顔見せるたびに「大きくなったねえ」

ちょっとしたことにも「おめでとうさん」

っていう風に、いつも「僕」という存在そのものを無条件に肯定してくれてた気がする(もちろん、親に対してもこれは言えると思う。でも今回の主役はおばあちゃんやおじいちゃん。)

 

すごく、言語化するのは難しいけど、こういう無条件で、無意識的で、温かくて、人の一生に溶け込んで見えない思いやりのようなものが「無償の愛情」なんじゃないかって最近考えるようになった。

 

こういった「無償の愛情」的なものが、僕とおばあちゃんの今の関係性の一部でも、築いているのだとしたら、それってすごく美しいなと。すごく大切にしたい感情だなと思う。

 

こうやっていろいろ書いてある間にも、いろんな思い出がフラッシュバックして少し目頭が熱くなって来るぐらいには、僕にとっておばあちゃんとおじいちゃんって大切なんだなあと感じる。
あんなに熱かったホットコーヒーはすっかり冷めてしまったけど。

 

これからも帰省するたびに顔を見せよう。今までたくさん受け取った分、もっともっと愛情を届けよう。この温かい感情を忘れないようにしよう。

 

「またすぐ顔を見せにくるね。」